夢だった『大学で教師として働く』ことと『自分のクリニックを開く』ことを実現したペリ。そして、『誰かの役に立つことがしたい』と日本語学校を始めた私。一人から始まった日本語クラスの生徒数は100人ほどに増え、お金がない状況から脱して少しずつ贅沢ができるようになってきました。私の給料で生活し、ペリの給料はほぼ全額を貯金できるほどに。
しかし、ペリの胸には「日本へ戻りたい」という気持ちが変わらずにありました。
当時のことを振り返ってペリは言います。 「僕はきっと、周りの大人たちの『夢』や『理想』が『自分の夢』だと信じていたんだと思う。小さい頃からずっと耳にしてきたから、その夢を叶えれば、幸せになれると思っていた。歯学の勉強はとても興味深かったし楽しかった。でも、夢だった歯科医になって自分のクリニックを持ち、大学教員にもなれて、たくさん稼ぐことができても、心から幸せや喜びを感じることが少なかった」と。
日本からブラジルへ戻ってきた直後、ペリの中には「日本へ戻りたい!」という強い気持ちがありました。でも、日本へ戻る手段が決まっていなかった私たちは、お金が無い状況を脱した安心感と、ブラジルでの生活に慣れてきたこともあり、満足し始めていました。そんな頃、ある出来事が起きました。
日本語学校のすぐ近くの公園前で、銃撃事件が起きたのです。そして、その場に私も居合わせてしまったのです!
平日の13:00過ぎ、ランチを済ませた私は、日本語学校へ向かって歩いていました。フロリアノポリスのダウンタウンにある市民の憩いの公園”プラッサ・キンジ”は、いつも通り多くの人で賑わっていました。チェスをしているご高齢の紳士の方々。散歩をしている人。昼休みを公園でゆっくりと過ごす人たち。すると、どこからともなくパンッ!パンッ!と音がしました。何の音だろうと思っていると、「逃げろ!」「銃だ!」と誰かが叫び、みんな走り出しました。私も、その波に流されるように、公園前にあった薬局へ逃げ込みました。薬局の2階まで駆け上り、しゃがんでじっと息をひそめました。その時の光景は今でもはっきり覚えています。自分の心臓の音だけがドクドクと響き、どうなってしまうのだろう…という不安。どのくらいの時間そこにいたのかはわかりません。みんなが薬局の外に出ていくのに着いて行き、私も恐る恐る外に出ました。そして、泣きながらペリに電話をしたのを覚えています。その日はバスに乗らずに、ペリに迎えに来てもらいました。
その夜、ペリが私に言いました。「やっぱり日本へ帰ろう!」
銃社会のブラジルの治安は、年々悪くなってきていました。「朝『いってきます』と家を出た家族が、『ただいま』と帰って来るまで心配や不安を抱えて生きるような人生は送りたくない」ペリが私に言いました。
ペリの念願だった大学教員の仕事と、患者さん1,000人程を抱えていた矯正歯科クリニック。 それらを続けることより、家族の安全を一番に考えてくれたペリには本当に感謝しています。
「日本へ帰ろう」と決めたその日、日本へ帰る期限も決めました。 「いつか…いつか…日本へ帰ろう」と言うばかりで、ブラジルで生活し続けるのは良くないと感じたからです。 ペリが35歳になるまでに日本へ戻ることができなかったら、ブラジルで生きていこう。ブラジルでの人生を満喫しようと二人で決めました。
この時、ペリは32歳。タイムリミットまで、あと3年…
【写真】私たちが住んでいたフロリアノポリスの街。海に囲まれたリゾート地です。人も温かく、食べ物もおいしく、キレイな街。今も大好きな街!…